shozaifumei

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SNSを使ってきて、他人の人生を垣間見せてもらって、こんな生き方もあるのだと知ることができた半面、自分には叶わない生き方を目にして死にたくなることも増えた。

名前も知らない誰かに嫉妬して、自分がそうできないからってイラついて。

それでも続けてきてしまった。

だけど今は、会ったことはおろか、文字の上で会話を交わしたこともない誰かの安寧を祈る夜もある。

 

他人の悲しみに、必要以上に気持ちを持っていかれてしまうようになったのはいつからだろう。

自分のことは直視できないくせに。

感情移入か、違う、これは私の中から漏れ出す感情だと思う。

私には他人の気持ちなんてわからない。想像しても外れているし、教えてくれるわけでもない。だから私に唯一残された立ち振る舞いは尊重することだけ。

 

世の中、許せないことだらけだよ。幸せになる前にまず不幸を排除したいんだ。だけど生まれてからただ精一杯生きているだけなのに幸福が不幸に追いつかない。なんで? 取り返しのつかないことばっかり。幸福にフォーカスを当ててもどうしようもない出来事が視界外から覆いかぶさってくることもあるでしょう。素直に失望でもしておけばよかったかな。でもそれができなくて。でもしておけばよかった。うまくやれる人間は、相手も自分もぜんぶ救っちゃうんだろうけど。

解決できないからって、怒りの矛先を気づけば間違えて、本当に大切なものを傷つけて、挙句大切じゃなかったのだという烙印。不確かな記憶に急かされる。

どうしてこれほどまでに、震えながらも生きながらえてきた尊い人たちが、傷ついて欲しくない人たちが、何も知らない奴らに通りすがりに消費されなきゃならなかったんだろう。被害者遺族みたいな顔して、結局傷つけてたのは私だね。

 

生きてきた人を見ると、敬虔な気持ちになる。ああ、私はずっと絶望から目を逸らしている気がするな。今までずっとそうしてきたんだ。何も頑張っていないんじゃないか、何からも生き残っていないんじゃないかという不安が、時々言いようのない恐怖となって襲ってくる。頑張ってるよ、何をってただ生きていることを。空っぽだけどこれでも私なりに精一杯生き残って来たのだと、そう思わないと生きて居られない。でも私はそれを胸張って言えるような人間じゃない。