shozaifumei

Twitter→ @iiyodayo0

旅立ちの日に


出かけるために着替えていたら、ふと、昨日見たはじめしゃちょーの「全員はじめしゃちょーで『旅立ちの日に』うたってみた」の動画が面白かったのを思い出して、手帳に"はじめしゃちょー"、と筆を走らせた。最近あった面白いことの話題になったら先生に教えよう。



カウンセリングで、距離感について話した。
私からは見えない個人のつながりがあり、そこには完成された、あるいは完成されうる世界があると想像することで、一歩引いたところに立てる、ほどよい第三者でいられるのだとわかった。
そこに恋愛が絡んでくるとまた違うケースになるけれど。
もしかしたら違わなくて、本当はややこしいことなんてなくて、同じ原理を守ればうまくいくのかもしれないけど。


苦しみや悲しみ、喜びや楽しさも、ぜんぶその人のもの。
その人にはその人の松葉杖がある。




私は、モーニングページを時々、時々だけど書いている。
起きたら、まず頭の中にある感情を3ページ分書き出すものです。
「脳の排水」ともいう。
そんなに書けないので、ちっちゃな文庫本サイズのノートを使ってる。
これは人に見せるつもりが1ミリもないものだから、赤裸々に書いてある、のに、なぜかネガティブなことだらけではない。昨日の分析や、じゃあ今日からはどうする、といったことが書かれている。私にしては珍しいこと。たまに昔のことについての悲しいことだけで3ページ埋めてしまうこともあるけれど、日記とは書いてあることの毛色が違うのだ。なんでだろう。
寝起きでぼんやりしてるし、起きたばかりで何も出来事がなく書くことが何もないときに、必然的に昨日の分析や生活の対策を書くようになるのかもしれない。

そこに書いてあることたちをブログに書けばいいのでは?
ブログの書き方についてずっと悩んでいた。

でも、先生から
ネガティブとポジティブ関係なく全ての受け皿としてモーニングページがあり、せっかくすべての受け皿としての機能を果たしているのだから、ブログに転用することを前提として書かないほうがいいとアドバイスをもらった。たしかに、あとで人目につくであろうことを意識しながら書くと、無意識下で体裁を気にしてしまって、本心と実際の文章が噛み合わなくなってしまうだろうから。それじゃせっかくのモーニングページの機能がもったいない。あくまでモーニングページはモーニングページとして機能させ、発信したいと思った部分だけ拾い上げるやり方のほうがいい。

ありのままを話したい。でも裸の部分を守る観点も必要なんだ。
何もかもをさらけ出すのはあまりにも無防備で、あとあと私を苦しめる刃物になってしまうかもしれない。そのへんの舵取りをできるようになりたい。
自分の本当の気持ちがわからないから舵が取れないのだけど、自分の本当の気持ちがわからないからこそしっかり握って舵を取らないといけないのだ。

話したいことはたくさんあって、でも恐くて、話せなかったことがある。いままでのすべてを壊してしまうんじゃないかという不安があった。
話して自分はどうしたいのだろうとずっと思っていた。話して、贖罪してる気になりたかったのだろうか。怒ってほしかったのだろうか。
恐くて話せない、その恐さが、枷ではなくて、私が私の舵をとるための手綱だとしたら、と考えたら、なんとなく腑に落ちた。手は緩めていたけれど、腕に何重にも巻き付いて、ぴんと張り切った状態で私を食い止めてくれていたのかもしれない。


カウンセリングの終わり、
はじめしゃちょーの旅立ちの日にの動画をお勧めしたかったけど、タイミングを逃した。タイミングを逃したことすら含めて言えばよかったのにな。
後でもう一度動画を見直そう。本当はそこまで面白くなかったかもしれない、そしたらお勧めしなくて正解だったと思えるから。
そう思っていたけど、夜もう一度見たらやっぱり面白くて、次回教えようと思った。


f:id:shozaifumei:20190317002616j:plain