腕毛を剃った話。
腕の毛を剃った。
ついでに足のも。
中学生くらいの時から何回か、興味本位で腕と足の毛を剃ったことはあった。
みんなもあると思う。
もしかしたらないかもしれないけれど。
だとしても、「生きてるだけで、愛」という映画の主人公が、子どもの頃に体中の毛を剃ったことがあると言っていたので、私は一人じゃないと思う。
興味本位というか、とにかく毛が気持ち悪くて剃ったのかも。あまり覚えていない。
でも、今回はきっかけが違った。今回と同じ理由で毛を剃るのは2回目だった。せっかく改めて剃ったので言語化したいと思いここに記した次第です。
今日初めて行く施設で、男性のかたが案内と説明をしてくれたのだけど、話している時、ふと、その人の毛深い腕を見て「怖い」と思った。
たぶん、やっぱり腕なのだと思う。人が何かを為すとき、腕を使うから。それは目の前に伸びてくるから。トラウマになるから。だからそれに比べて足の毛深さは気にしないのかもしれない。
個室に入ってその人の説明を聞いていると、私は意識がどこか別のところに飛んでしまって、過去の過ちとか、この後どう帰ろうかとか、覚えていないのだけどその他諸々のこともおそらく考えていて、そのうち私の視点は目の前の男性の腕にとまったのだと思う。その男性は毛深かった。
毛深さそのものが恐怖なわけじゃない。でも、どうしても「毛深さ」と、そこに腕の太さや声、顔までが関わってくると、男性にいい思い出のない人からしたら恐怖と連動してしまうこともあるかもしれない。この人はあの人みたいな人じゃないから、と個人個人を区別することは難しい。ましてやはじめて会う人なんか。
まるで別人が乗り移ったかのように、私の中にそんな思考が巡った。
私は、自分の中で性別が切り替わることがある。たぶん、最近になってから。
ふとした瞬間に、「いま女だ」と思う時がある。
今日、その毛深い男性を目の前にしていて、急に怖くなった。
その時、私は女だったと思う。
もし自分が女だったら、今怖いかもしれない、と思ったのか?いや、私自身が怖いと感じていたので、「もし自分が女だったら」という想像ではなくて、やっぱりその時、私自身が女だったのだと思う。というか、たとえ私が男の状態で目の前の毛深い男性に恐怖を抱いたとしてもなんらおかしくない。女だからとか、男だから、とかじゃない。
その男性の腕を見て怖いと思って、それから自分の腕を見た。毛の濃さは普通だと思う、思いたい。
でも今日そんなことがあって、お風呂入るとき剃ろう、願わくば帰ったらすぐに、と決めた。
PS
毛深い男性に魅力を感じる人もいるだろうし、逆に毛のないつるつるな肌に恐怖を抱く人もいると思う。現に私は、アル中だった父の腕が、毛の一本も生えていないつるつるの肌だったので、今でも似たような腕を見ると血の気が引くし、実際腕の毛を剃った自分の腕がそれに似ていて目をそむけたくなる。じゃあなんで剃ったんだと思うけれど、それは私にもわからない。ただの天秤の差かもしれない。
私が写真のようなものを始めてから今までの約3年間、片手で数えられるくらいだけど、本当はもっと少ないのかもしれないけれど、ずっと見てくれている人たちができて、それは私には奇跡みたいなことなんだ。
3年前、アルバイトで貯めたお金でカメラを買った。
単発のバイトに毎回行っていた私は、1週間ほど続く大きなイベントのチームリーダーになってしまい、慣れないまとめ役で心身ともに疲弊していた。終電に乗っても最寄り駅に辿り着けず、最寄りのいくつか手前の終着駅で降りて、一緒に参加していた親友とともに24時間営業の飲食店に入った。
「この仕事が終わったら、カメラ買うんだ」
深夜1時。死んだ目の私がそう言うと、親友は「おおっ」と目を輝かせた。
「ついに〇〇(私の下の名前)が一歩踏み出すのか」と、嬉しそうに。
その親友は小学3年生からの付き合いで、私が高校を辞めてからも定期的に会ってくれていた。私がグレてホストもどきみたいな容姿になっても一緒に出掛けてくれた。私が唐突に誘った「明日秩父行かない?」にも付き合ってくれたりした。その当時のことを話すと、彼は「俺も毎日死にたかった。お前にどれだけ支えられたか」という旨のことを言う。
今は一年に一回会うか会わないか。たまにアカウントを覗くが、人生で一番楽しそうだった。
バイトの給料はたった数万円だったけど、それで買える範囲のカメラとレンズを探した。
写真サイトで見た「いいな」って思った、知らない人が撮った車窓からの景色に一目ぼれした。その写真がFUJIFILMで撮られたものだったからというのもあって、私はFUJIFILMのミラーレスと、傷の入った安いレンズを買った。
それから3年が経った。
SNSで、私の理想とすることを15歳かそこらで体現している人を観測して、私は今まで何をしていたんだろう、と思った。
でも私が写真のようなものを始めてから今までの約3年間、片手で数えられるくらいかもしれないけど、本当はもっと少ないのかもしれないけれど、ずっと見てくれている人たちがいて、それは私には奇跡みたいなことなんだ。
私程度の小さな人間には、という意味ではなくて、私には。シンプルに私にとっては、という意味で。幸せの感度を無理に研ぎ澄ましているわけではなくて、それだけは本当に奇跡みたいなことなのだという認知が私にはある。だから、感謝の気持ちを忘れたくないなと思う。その気持ちをもって、もっと上手くなりたい。上手くなりたい。
■
SNSを使ってきて、他人の人生を垣間見せてもらって、こんな生き方もあるのだと知ることができた半面、自分には叶わない生き方を目にして死にたくなることも増えた。
名前も知らない誰かに嫉妬して、自分がそうできないからってイラついて。
それでも続けてきてしまった。
だけど今は、会ったことはおろか、文字の上で会話を交わしたこともない誰かの安寧を祈る夜もある。
他人の悲しみに、必要以上に気持ちを持っていかれてしまうようになったのはいつからだろう。
自分のことは直視できないくせに。
感情移入か、違う、これは私の中から漏れ出す感情だと思う。
私には他人の気持ちなんてわからない。想像しても外れているし、教えてくれるわけでもない。だから私に唯一残された立ち振る舞いは尊重することだけ。
世の中、許せないことだらけだよ。幸せになる前にまず不幸を排除したいんだ。だけど生まれてからただ精一杯生きているだけなのに幸福が不幸に追いつかない。なんで? 取り返しのつかないことばっかり。幸福にフォーカスを当ててもどうしようもない出来事が視界外から覆いかぶさってくることもあるでしょう。素直に失望でもしておけばよかったかな。でもそれができなくて。でもしておけばよかった。うまくやれる人間は、相手も自分もぜんぶ救っちゃうんだろうけど。
解決できないからって、怒りの矛先を気づけば間違えて、本当に大切なものを傷つけて、挙句大切じゃなかったのだという烙印。不確かな記憶に急かされる。
どうしてこれほどまでに、震えながらも生きながらえてきた尊い人たちが、傷ついて欲しくない人たちが、何も知らない奴らに通りすがりに消費されなきゃならなかったんだろう。被害者遺族みたいな顔して、結局傷つけてたのは私だね。
生きてきた人を見ると、敬虔な気持ちになる。ああ、私はずっと絶望から目を逸らしている気がするな。今までずっとそうしてきたんだ。何も頑張っていないんじゃないか、何からも生き残っていないんじゃないかという不安が、時々言いようのない恐怖となって襲ってくる。頑張ってるよ、何をってただ生きていることを。空っぽだけどこれでも私なりに精一杯生き残って来たのだと、そう思わないと生きて居られない。でも私はそれを胸張って言えるような人間じゃない。
常に見えてる太陽と、雲の切れ間からたまに見える太陽
常に見えている太陽と、雲の切れ間からたまに見える太陽、どっちが落ち着きますか?
私はどう思うの?
「私だったら」と当てはめるのはいつもあてにならないけど、とりあえずやってみる。
私は後者のほうが安心する。でも「絶対後者です、なぜなら、〜だからです」と言い切るほどの気持ちはない。実際に誰かから聞かれたら私は答えに困る。
質問に対して明確に「私の考えはこれです」と答えられないのは、世の中の全てが一概には言えないから。これが極論なのはわかっているし、とりあえず自分の意見を述べて後で補完として「まぁ一概には言えないですけどね」と付け足せばいいのもわかっているけどあんまりハキハキ答えたくない。
人間味を感じるから、たまにはネガティブなところも見せてくれると安心する。
でもその「ネガティブからの人間味を感じるから安心する」っていうのも、人間味を見せてくれる人によっても違うんだきっと。ある人はネガティブな面を見せないほうが魅力的に映るかもしれないし、またある人はネガティブな面を見せてくれたほうが安心する。みんながみんな人間味を見せてくれたからといって安心するわけではないんだ。見せる側によっても違うし、さらに受け取る側によっても違ってくる。それぞれの主観がある。組み合わせは無限大。だから『常に見えている太陽と、雲の切れ間からたまに見える太陽、どちらのほうが落ち着きますか?』という質問をしたって、本質的なところには手が届かない。
と、こういう結論になると、結局自分が知りたかったことは何一つ知ることができないのだけど。
答えが無い、それが答え、みたいなのが苦手で、ずっと考えてしまう。
私を見てくれている人はどっちなんだろうか。それも見る人によって違うんだろうな。
190315
化粧を教えてくれる友達をつくりたいな。
自力でやってたけど、変かもしれないから。
化粧してる友達はいないし、そもそも友達が。
女の子が自分の可愛さに気づくデパートのあの場所には行けないし、姉にも言えない。化粧教えてって普通に言えばいいと思うのだけど、そういう種類の仲の良さではないし、普段はなかなか話さないし、普通に言えたら苦労しない。
今日は美容室に行った。
起きれなかったらこわいので、午後に予約をとっておいた。結局、薬局で花粉の薬を買っていたら時間ギリギリになって、少し走るはめになった。くしゃみが止まらなかったので、美容室に行く前に飲みたかったのだ。でも結局時間がなくて飲めなかった…。
施術してくれたのはショートカットの女性だった。
話しかけてくれるが、うまく返せなくて汗が噴き出してくる。住まいの話になったので、さいきん実家に帰ってきたこととか、姉が寂しがり屋だってことを話した。ごきょうだいは? と僕も聞こうと思ったのに、その瞬間自分の抑揚のない声がまざまざと思い出されて、無理に質問していると思われるだろうかと考えてしまって、数秒の逡巡の末に質問を飲み込んでしまい、それに押し出されるようにまた汗が出た。となりの席のお客さんが美容師さんとジョークを言いあったりして楽しんでいて、縮こまる気持ちになった。申し訳ない。
そのあと汗かいてるのがバレて、ドライヤーの涼しい風で冷ましてくださった。
どういう経緯だったか忘れたけれど、さいきんタピオカのお店が多いですよねという話になった。
結構飲んだりしますか?
飲みたいなあと思いながら通り過ぎてます。
まあ一人じゃ並びにくいですもんね、でも男性の方もたまに並んでませんか。
あー、たしかに結構男子高校生なんかも並んでますね。
最近は男性同士でホワイトデーで手作りお菓子渡し合うみたいですよ、家に集まってお渡し会とかするって、昨日来た高校生の男の子が言ってて、もう女子みたいですよね。
少し話題を変えて、化粧の話をしてみた。
最近はお化粧する男性も多いじゃないですか。
本当はもうやっているけれど、自分もやってみたくて、と言い換えて、そういう友達をつくりたい、コスメを買いに行くのも難しくて、と話した。女性美容師さん曰く、男性でも美容師ならけっこう化粧品売り場に行くらしい。だからべつに男の人が化粧品売り場にいても変ではない、って。その男性たちが、化粧品を自分に使うのか、それともお客さんへのアドバイスのために知識を蓄えているのかはわからないけれど。(今思えば、僕に気を遣って そういう男性もいるんじゃないですかという想像で言ってくれたのかもしれない。)
だから表参道とか原宿、美容室の活発な街に行けば案外浮かずに買えるかもしれないなと思った。でもむしろそういうところって女の人がたくさんいそうだ。逆にもっと浮いてしまうかもしれない。仮に浮かずに買いに行けたとしても、色が自分に合うかどうかとかの不安は残る。
旅立ちの日に
出かけるために着替えていたら、ふと、昨日見たはじめしゃちょーの「全員はじめしゃちょーで『旅立ちの日に』うたってみた」の動画が面白かったのを思い出して、手帳に"はじめしゃちょー"、と筆を走らせた。最近あった面白いことの話題になったら先生に教えよう。
カウンセリングで、距離感について話した。
私からは見えない個人のつながりがあり、そこには完成された、あるいは完成されうる世界があると想像することで、一歩引いたところに立てる、ほどよい第三者でいられるのだとわかった。
そこに恋愛が絡んでくるとまた違うケースになるけれど。
もしかしたら違わなくて、本当はややこしいことなんてなくて、同じ原理を守ればうまくいくのかもしれないけど。
苦しみや悲しみ、喜びや楽しさも、ぜんぶその人のもの。
その人にはその人の松葉杖がある。
私は、モーニングページを時々、時々だけど書いている。
起きたら、まず頭の中にある感情を3ページ分書き出すものです。
「脳の排水」ともいう。
そんなに書けないので、ちっちゃな文庫本サイズのノートを使ってる。
これは人に見せるつもりが1ミリもないものだから、赤裸々に書いてある、のに、なぜかネガティブなことだらけではない。昨日の分析や、じゃあ今日からはどうする、といったことが書かれている。私にしては珍しいこと。たまに昔のことについての悲しいことだけで3ページ埋めてしまうこともあるけれど、日記とは書いてあることの毛色が違うのだ。なんでだろう。
寝起きでぼんやりしてるし、起きたばかりで何も出来事がなく書くことが何もないときに、必然的に昨日の分析や生活の対策を書くようになるのかもしれない。
そこに書いてあることたちをブログに書けばいいのでは?
ブログの書き方についてずっと悩んでいた。
でも、先生から
ネガティブとポジティブ関係なく全ての受け皿としてモーニングページがあり、せっかくすべての受け皿としての機能を果たしているのだから、ブログに転用することを前提として書かないほうがいいとアドバイスをもらった。たしかに、あとで人目につくであろうことを意識しながら書くと、無意識下で体裁を気にしてしまって、本心と実際の文章が噛み合わなくなってしまうだろうから。それじゃせっかくのモーニングページの機能がもったいない。あくまでモーニングページはモーニングページとして機能させ、発信したいと思った部分だけ拾い上げるやり方のほうがいい。
ありのままを話したい。でも裸の部分を守る観点も必要なんだ。
何もかもをさらけ出すのはあまりにも無防備で、あとあと私を苦しめる刃物になってしまうかもしれない。そのへんの舵取りをできるようになりたい。
自分の本当の気持ちがわからないから舵が取れないのだけど、自分の本当の気持ちがわからないからこそしっかり握って舵を取らないといけないのだ。
話したいことはたくさんあって、でも恐くて、話せなかったことがある。いままでのすべてを壊してしまうんじゃないかという不安があった。
話して自分はどうしたいのだろうとずっと思っていた。話して、贖罪してる気になりたかったのだろうか。怒ってほしかったのだろうか。
恐くて話せない、その恐さが、枷ではなくて、私が私の舵をとるための手綱だとしたら、と考えたら、なんとなく腑に落ちた。手は緩めていたけれど、腕に何重にも巻き付いて、ぴんと張り切った状態で私を食い止めてくれていたのかもしれない。
カウンセリングの終わり、
はじめしゃちょーの旅立ちの日にの動画をお勧めしたかったけど、タイミングを逃した。タイミングを逃したことすら含めて言えばよかったのにな。
後でもう一度動画を見直そう。本当はそこまで面白くなかったかもしれない、そしたらお勧めしなくて正解だったと思えるから。
そう思っていたけど、夜もう一度見たらやっぱり面白くて、次回教えようと思った。
散り散り
思いつく言葉の数々はあるけれど、それぞれにエピソードはない。ただ思想だけが浮かんでくる。個々を主題として何かを書いてみたいけど、それができない。二、三行で終わる。それでもいいのかな。それで続くのかな。
ここ数日、
もう絶対にあの時には戻りたくないのに、戻りつつある。
あの時辛かったことをもう二度と繰り返したなくないけど覚えていたい。それは、決して戻りたいという意味じゃない。ただ忘れたくない。思い出したくないけれど、消えてしまったら悲しい。当時の気持ちをバネにするため?でもべつにバネにしてない。荷物になってる。ただ消えて欲しくない。引きずられる、なら消したほうがいいけど。
昨日思ったことを読み返すと既に意味がわからなくなっていることがある。
「戻りたくないけど溺れていたい」とか書いてあるけど意味がわからない。溺れたくない。
最近のこと、
私には、こう返ってきたらこう答えよう、という想像する癖がある。こう聞かれたら自分はどう答えたいんだ?と思考を広げる材料にはなっているが、コミュニケーションとは脳の領域が違うらしく応用できない。むしろ裏目にでるとコミュニケーションがとれなくなる。自分一人で想像を進めすぎて気持ち悪いことになる。
そこまで気を遣えるんですね、と言ってもらえたとしても、
いや、気を遣う能力と人を傷つけない能力はイコールじゃない……と思う。ていうかそもそも社交辞令かもしれない。
誤解を恐れての説明も行きすぎると押し付けになるし自己中心的になる。してしまったなら、誤解を解くよりまず謝罪だろう。
ああ、言葉遣いの荒い人の使った言葉って使いたくなくなるんだな。
「地球で人を傷つけることを経験し後悔し学んで来たため、天国には優しい人しかいない。」という文を思いついたけれど、
それを人を傷つけたことのある人が言っちゃおしまいなのでは?
私はカップル厨なのかもしれない。
すでに出来上がっているカップルは微笑ましい。既に出来上がっているというより、その恋人同士のどちらも、自分とはなんら関係のない場所にいる人たちである、ということが重要なのか。役者がそろっている。私はただ見てるだけでいいから、すごく楽だ。私があたふたしなくても、その人を守ってくれる誰かがいる。メサイアコンプレックスがまったく荒波を立てない。メサイアコンプレックス持ちなら、その人を守ってくれる誰かが既にいても、自分が救いたいと思うものなのかな?でも私はそうじゃなかった。
言葉を発することさえ億劫になっていたが、誰かを褒めたり感謝を伝えるという目的と抱き合わせれば喋れるのでは。でもそればっかりだと評論家みたいになってしまうのでは。
この人にとってはこれが死ぬほど辛いことなんだ、と知れたのが嬉しかった。
恋人でもないお前には関係ないでしょ、というチートを使われないために、私たちは形式的なものを結ばなければならない。
同じ魂
同じ境遇だからといって
同じ悩みを持っているからといって
同じものに飢えているからといって
同じものを求めているからといって
同じ病気だからといって
仲間になれるわけじゃないことについて。
数年間考え続けている。答えのようなものが浮かんではぼやけて、浮かんではぼやけて、うまく言語化できていない。
微かな違いや、一寸違わずとも、そこから生まれる感情が一緒ではなかったり、それが火種になっていた。
昔ほど悩まなくはなったけど。
関わってみようか考えて、しばらくたってから、ああ、やっぱり違ったようだ、手を伸ばさなくてよかった、そんなふうに感じる自分を卑しく思う。いったい何を基準にしているのか。
期待を持たなければよくて、それはできるのだけど、そうすると極端に冷めた感情を持ってしまう。そこをどうにか調整しようとしたり、そういうこと自体がいらないのかもしれない。仲間になろうがなれまいが、そもそも仲間ってなんだろう。仲間になれそうかそうでないかとか、根底から間違っているのもなんとなく自覚している。ただ可能性としては、仲間になれなくても味方にはなれるはずだということ。
1つの記事の中にその日の出来事や昔のことから連なる気持ちとかをつめこむのもリアルだとは思うけど、感情や項目ごとにタイトルつけて1つの日記としたほうが、あとで読み返すとき探しやすいしタイトルから連想しやすいかなと思って、このスタイルを実験してみます。
甘味処
今日思ったこと↓
・顔が似ても似つかないとしても、たとえば後ろ姿、体形、髪型、髪質、髪色、首の細さ、まつ毛の長さ、まばたきの間隔から、特定の人を連想してしまう。
誰かに対して、この人はまた同じ過ちを犯すだろうな、とか、この人幸せになれるのかな、とか思った瞬間のことを愚かに思った。幸せになるんだろうな。そんなことを、電車の中でベビーカーの中の赤子をあやす女性を見て考えた。想像を進めすぎか。
・自分を大切にできていないと、自分と他人の境界線が曖昧になった時、自分をぞんざいに扱う感覚で他人のことも傷つけてしまう、とふと思い出す。他人を巻き込んだ自傷みたいで最悪の行い。
・私の今までの人生にはルールが少なかったように思う。自分で決めた決め事がなかったように思う。それでたくさん時間を無駄にしてきた。これからは自分の性質に合わせて効率的な自分ルールをつくっていこう。
・自転車に乗った少年が横断歩道を渡るとき、車に対してお礼を言ってていい子だなと思った。
・他人に対しては絶対にそんな言葉浮かんですら来ないのに、自分に対しては、過去の行いを思い返しては、気持ち悪い死んでくれ、が短縮してきもしね、と思ってしまう。
・馬鹿な話なんだけれど、自分の行いの報いを絶え間なく受け続けていて、「これは罰だ」と一生思い続けながら生きていくのだろうか。幸せになれそうな瞬間が訪れたとして、その瞬間を罪悪感で無駄にしないような生き方をみんなはどうやって実現しているの?そもそもみんなは人を傷つけた経験がないのか。
私はどうしたいのだろうか。先生にこれを話したことを想定してみると、きっと先生はこう返してくる。私はどうしたい。抱えるのは絶対なんだから、抱えて進むしかないと思っている。進むしかない。先のことはわからない。結局自分のことか。
最近和菓子が食べたくて、電車に乗って近くの郷土博物館に併設されている甘味処に行くことにした。掃除機をかけて、洗濯をして、スマホを見たらおととい面接を受けたところからメールが来ていて読んだら落ちててきもいと思った。
電車で街まで出て、そこから歩いて郷土博物館に行った。敷地に入り長い階段を登るとすぐに甘味処があった。私はゆきんこを頼み、それを食べていた。
店主が別のお客さんの注文を間違えて、おにぎりのはずがうどんをつくってしまったらしく、うどんをどうするか困っていた。すると私たちのところへ来て、「変な話、お腹すいてない?」と聞いてきて、うどんをもらった。ラッキーだった。
博物館を見て、昔は日本国内だけで戦争してたんだよな、なんてことを思った。
帰り道、最近テレビで見た食パン専門店のお店が偶然目の前に飛び込んできた。地元にもあったことに母は驚いていた。食パンは予約制らしく、母は店に入って予約していた。受け取れるのは1か月後らしい。
駅直通のデパ地下を歩いている時、涙が出てきたけど、なんで出てきたのか、もう思い出せない。
終わり。
水色
誰かの人生の最悪の悪役になったことはありますか。
誰かの呪いになったことはありますか。
私の放った言葉が、あの人の中に残り、あの人を苦しめ続けるんだ。
そう想像する。
そういう想像をすることを、人の気持ちを考えるともいうかもしれないけれど、それは遅すぎるし、そしてこういう想像は、おこがましいことでもあるかもしれなくて、さらに無責任性をも孕んでいるかもしれなくて。そんなことどっちだって関係ないのだろうけど。ただ頭をよぎったから考えてみただけだよ。
おこがましい、というのは、私の発言は他人にとってそれほどの影響力はないかもしれないのに、永遠に人を傷つける呪いと自らが思っていることが。あの人が私に言われたことなんてとうに忘れて、強く生きているなんて知る由もないけれど。
同時に、おこがましいのかもしれないと思うこと自体には無責任性も含まれている。あの人が私に言われたことを忘れることなんて永遠にないとも一緒に思うから。
敷かれた祈りがあの人を救ってくれればいいと、一瞬だけ思った。お守りは、あとから来た呪いに勝てるのだろうか。そんなものは、そもそも波に掻き消されているだろう。
「私たちはお互い、誰かの呪いなんだね。でもいまそれを共有したから、私の呪いをあなたが誰かに、あなたの呪いを私が誰かにこれからかけることはなくなった。私たちが出会ったことをこれで正しくしよう」
小説の中で、ある女の子がそう言った。
寂し気。麦芽と同じ匂いの別の何か。
引っ越しのための荷物の整理が終わらない。
段ボールに詰めているのだからスペースはひらけていくはずなのに、なぜか部屋がどんどん圧迫されている。
ミニマリストの動画とか参考にして頑張って捨てているつもり。
人は物が捨てられないのではなく、物に宿る記憶を捨てたくない。だから写真に撮ると15%くらい捨てやすくなる。
途中から何も手に付かなくなってスマホを眺めていた。気づいたら寒い部屋で凍えそうになっていた。頭が痛い。昨日スマホの画面設定を明るめに変えたせいで目に負荷がかかってるのだろうか。一応明るさの自動調整をONにしておいた。
なんだか今日は寂しい気がする。寂し気が漂っている。私だけかもしれないけどそういう天気の日もきっとある。
夕方にご飯を食べてしまったけど、どうせ夜中お腹減るだろうと思ってコンビニに行った。こちとら洗濯機売って得た五千円があるんじゃ。豪遊してやる。
inlivingさんのファミマのお気に入り商品の動画を見てから、ずっと真似てみたかった。
ファミマに行くたびに商品なんだっけと忘れてしまっていたので、今日はスクショして行きました。
それで久しぶりにお酒を買った。プレミアムモルツ。
ビールは毎回うげーっとなるけど、後半になるにつれ慣れて、酔いのせいもあるのか少しあとを引くようになってくる。
ビールを飲んでいる時、すごく懐かしい匂いがした。
ビールの匂いなんだろうけど、違う。私はこの匂いをビールとしてではなくて、何か別のもので最初に嗅いだ気がする。
なんの匂いだっけ、と気になって、コンポタで手を温めるときみたいな持ち方でずっとくんくんしていた。
結局思い出せなかった。もしべつにいい思い出じゃなかったらあれだけど、そういうのではない感じがする。
ここまで出かかってるのにな、どうしても思い出せないや。
今日はこのくらいで。
おやすみなさい。
20190228
夜中に何度も起きた。汗で溺れるかと思った。
9時15分から耳鼻科を予約してあったけれど、起きたら10時だった。
電話で確認すべきなのに、そのまま病院に出向いた。べつに割り込みをさせてもらえるとかは期待していなかったけれど、期待して来たみたいに思われるだろうなとは思った。
とうぜん予約はキャンセル扱いになり、2時間待つことになった。
昨日の寝る前、喉の痛みに泣きそうになりながら、もしかしたら手術するかもとか考えていた。それからなんでか、自分が傷つけた人のことが表層に浮かんできて、ずっと涙が止まらなかった。たぶん、自分が辛い時、あの時あの人はこんなふうに息苦しくていっぱいいっぱいだったのかもしれないのに、そこでさらに私はその人を追い込むようなことをしていたんだという考えが巡るのだと思う。
最近栄養が足りてないなと思った。どうりで喉を痛めるはずだ。ビタミン剤とかは飲んでいたけど、やっぱり食べ物から摂取しないといけないのだろうか。
2時間待つ間にスーパーでお惣菜の肉じゃがと野菜ジュースを買って、一旦家に帰ってそれを食べた。
いつのまにか2時間経って、診察を受けに行った。先生は、前の人には敬語だったのに、私にはタメ語で、「お大事に」も前の人には言ってたのに、私には言わなかった、でも、特に気にならなかった。私は覇気がないからか、そういうことがある。
薬局では、昨日と同じ人が薬を渡してくれた。私の前の客がやばい人だったので、せめて私は愛想よく心がけた。
午後はカウンセリングがあった。
早めに行って、ROUTE BOOKSで日記を読み返した。
よい場所だった。
今度は晴れた日に来たいと思った。
居心地がよくて、カウンセリングに遅刻しそうになったので小走りで向かった。
もうすぐ先生が遠くに行ってしまう。残された時間の中でどれだけ話せるか、話題を厳選したつもりでも溢れるほどあった。
話したかったことはぜんぶは話せなかったけど、今思えばただ話したかっただけだし、まあいいかと思う。想定していたようには進まないのがいつものことだった。
話題的には二つくらい話して、それであっという間に時間が過ぎた。不思議と落ち込まなかった。なんでだろう。
「まだ今日話しておきたいこと聞いておきたいことありますか?」
と聞いてくれて、
「次回うまく話せるようにしてきます」と泣きそうになりながら言ったら、
「うまく話せなくてもいいのに」と言ってくれた。
私は最後にその日着ていためちゃかわいい犬のパーカーを自慢した。
その後、近くの映画館でアリータを見た。
通院ついでに映画っていいよね。
帰りにコンビニで、フォローさんがつぶやいてたアイスと、喉のことを考えて野菜ジュースを買って帰った。明日はリサイクルショップが洗濯機を回収に来る。夜に最後の洗濯をしようと思ったけど、音が隣の部屋に聞こえそうだな、明日の朝でいいか、起きれるかな。
この部屋で一番幸せだったのは、洗濯物を干してる時だったかもしれない。
明日、最後の洗濯をします。おやすみなさい。
午前中
扁桃腺が痛くて、何も食べられない。水を飲むのもきつい。
カロリーメイトとゼリー飲料でつないできたけど、それも無理そう。
ハレナースは不味いだけで1ミリも効かなかった。ビタミンⅭも過剰摂取したけどだめだった。風邪薬もうがい薬もロキソニンもだめ。なんか痛みが上のほうに上がってきた。このままだと中耳炎になってしまうかもしれない。
食べられると思って昨日の夜、米を水につけておいたけど、食べれそうにない。だけど水につけてしまったし炊くしかない。しかし研ぐのを忘れていたのでぬかくさくなった。
今日は面接会がある。行きたくないなあ。
行く前に耳鼻咽喉科に行こう。口コミが微妙とか言ってる場合じゃない。
なんども立ち上がっては布団に戻ってを繰り返している。
もう引っ越しまで日がないので、家電リサイクルショップに出張買取の予約の電話をした。なんかすごくいい人だった。見習おうと思っても、その人のセリフだとか佇まいをもう忘れている。
耳鼻科に行ったら2時間待ちだった。保険証を返してもらうまでの間待っていたら、幸せそうに走り回っていた女の子が私の顔を見て一瞬不思議そうな顔をしたけど、すぐに意識を逸らし母親のところに帰って行った。
2時間待ちなので、いったん家に帰ってきた。
そういえば、
シーシャに行ってみたい。
知らない街の本屋で待ち合わせしたい。
肉じゃがとか野菜炒めつくりたい。
気怠い意識の中で、窓から射しこむ落ちかけた夕日の光を眺めながら水を飲みたい。
何も予定がない昼下がりにバドミントンしたい。
桜の木を見ながら歩きたい。
郵便ポストと桜
テレビを捨てに行った。行きは自転車の荷台にテレビを積んでいたので写真を取れなかったけど、帰りにぱしゃぱしゃ撮って帰った。多摩川の向こう側にも行きたかったのだけど、また日を改めることにした。
前にもここに来たことがある。いつ、なんのためにかは忘れた。おそらく徘徊してたんだろう。
この景色を見て、郵便ポストと桜は相性がいいと、いつか思ったことを思い出した。それか今日思いついたのか、わからない、でも懐かしい感じがした。あの木は梅かもしれないけれど。春になったら、桜が咲いたら、郵便ポストと桜の木が一緒にある場所を見つけよう。
見えにくいけれど、古墳に猫様がいた。びっくりした。神様みたいだった。このあと民家の間を縫うように去って行った。
夕方はスーパーに行った。